Ulrich Beck & Elisabeth Beck-Gernsheim, Individualization/Ulrich Beck & Jonannes Willms, Conversation with Beck.

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)
一日書いただけでもう5日もたってしまった。これじゃあ「やりながらでっちあげる」前にフェイドアウトしてしまいそうなので、最近届いたウルリッヒ・ベックの本について少し書こう。

画像の方は有名な『リスク社会』(邦題『危険社会』)を表示させてるけど、ここで紹介したいのはIndividualization(ISBN:0761961127)とConversation with Beck(ISBN:0745628249)の方(これらは何度やっても画像が出ない。洋書はダメなのか?)。前者は「個人化」をめぐるベック(と彼の妻であるベック=ゲルンスハイム)の論文を集めたものであり、後者はベックへのインタヴュー集である。

ベックがいう「個人化」とは、簡潔にいえば近代化の過程の中で人と人を関係づけ統合する社会的・文化的枠組みが、個人による選択の産物であると捉えられる傾向がますます強まっているということだ。 近代とは伝統や共同体による拘束からの「解放」を示差的な特質として有しているわけだが、こうした解放の結果、即、自由な個人が生み出されたたわけではなかった。むしろ、旧来の社会的・文化的枠組みに代わる新しい枠組みが析出された。それらはたとえば、ネーションであり階級であり近代家族である。ベックが指摘しているのは、近代のなかで生み出されたこうした社会的・文化的枠組みでさえも、今や個人が選択できるもの、あるいはそうせねばならないものと捉えられ始めており、それゆえこのような枠組みは、もはや人々のつながりやアイデンティティを保障するものではなくなりつつあるということである。

ベック自身、現代先進社会に見られるこうした傾向を基本的には肯定的に捉えようとしており、その意味でかなりオプティミスティックである。家族はもはやセーフティ・ネットでないのだから、そのような関係を維持したければ、互いに平等で協力的な関係を作り上げるよう努力せねばならない。これは性別役割分業によって成り立っていた前期近代の家族関係よりもずっと民主的で、その意味でより理想的な形態であるとされるわけだ*1

しかしぼく自身の見解では、現在この国で生じているのは民主的な家族の形成というより、家族形成そのものからの逃走であるように思える。しかもこの逃走は「家族は民主的関係であるべし」という理念をある程度肯定しているがゆえに生じているのではないか。たとえば、将来の労働力といった利害関心にかかわらない純粋な愛情の対象としての子ども。これは今日かなりの多くの人が抱く子ども観だと思われるが、しかし純化された愛の対象を求めるなら、人間の子どもより動物のペットの方がある意味はるかにふさわしいといえる。人間の子どもは、いずれどの学校に行くかどのような職に就くのかという問題に直面するが、ペットの場合そうしたことは起こりえないからである。だとすれば、「子どもを産まずペットを飼う」という選択の方が、いっそう「民主的」な理念にかなっているということになりはしないか。ベックの現代社会論は現状分析としては鋭い指摘をおこなっているが、そこから導き出される規範的な帰結までをも額面通りに受け止めることはできない。

*1:このあたりの見解はギデンズの「感情の民主制」と同じ。