管理社会・環境管理型権力

ずいぶんサボってしまった。ご心配いただいた方々、お気遣いに感謝です。いや、元気にしてますよ、身体的には。ただ、仕事で少し困ったことがでておりますが・・・。

閑話休題。最近、五十嵐太郎『過防備都市』(ISBN:4121501403)を読んだ。セキュリテイ意識の高まりとともに、過剰なまでに監視の眼を光らせようとする現代社会の趨勢に警鐘を鳴らす本だが、ただ、「こうした社会のどこがまずいのか」という理論的・思想的なツッコミは弱いといわざるをえない。まあこのあたりは社会理論家の仕事であろうから、この本は、こうした問題を考えるための素材を提供してくれたものとして読まれるべきだろう。

過防備都市を問題化する概念としてしばしば言及されるのが、ドゥルーズの「管理社会」や、これを引き継いだ東浩紀氏の「環境管理型権力」であるが、前からずっと気になっているのが、これらの概念はその対立項として位置づけられるフーコーの「規律社会」や「規律訓練型権力」と本質的な違いはあるのか、ということである。たとえば、東氏は「環境管理型権力」の典型として、しばしばマクドナルドに設置された硬い椅子をあげる。これは快/不快という原初的な感覚に訴えかけることで人間の行動をコントロールするもので、イデオロギー洗脳により「まともな人間」を作り上げようとする「規律訓練型権力」とは、性質の異なるものであるという。環境管理型権力は人間を動物のように扱う権力だということだ。

しかし、「動物化」ということでいえば、規律訓練型権力も究極的な目標としては人間の動物化を目指しているのではないか。十分に訓練された人間というのは、規範やルールを意識することなく、命令を与えられればあたかも自動機械のように一定の振る舞いをするはずである*1。もちろん、身体的な感覚に訴えかけることによる「動物化」と、内面=良心を構築することによる「動物化」では、そこにいたるプロセスは異なるわけだが、しかし、フーコーが強調したのは、この内面=良心の構築も、精神を対象とするというより、身体に働きかけることによる効果であるという点を想起するなら、二つの権力の相違はいわれるほど大きなものではないように思えてくる。要するに、規律訓練型権力には環境管理型権力的要素が――その手段においても目的においても――入り込んでいるのはではないか、と考えているのだが、どうだろう?

*1:このあたりにフーコーの権力論とウェーバーの官僚制論の平行関係を見てとれる

[本]香山リカ『〈私〉の愛国心』(ISBN:4480061851) 広井良典『脱「ア」入欧』(ISBN:4757140711)

どちらもアメリカ批判の本であるという点では共通しているが、内容は雲泥の差があった。元々ぼくは香山リカのよい読者ではなく、今回もあまり期待せずに読んだのだが、ご都合主義的な事例の引き方と強引な論理展開――それがこの人の「持ち味」でもあるが――がいつにもまして目立ち、読み進めるのがつらかった。アメリカは「境界例」で日本は「解離性障害」との「診断」も、これでは「分析」というより相手を非難(批判ではない)するためのレトリックとして使われているにすぎない。批判的言説がいつのまにか批判対象の語り口に似てしまうという典型。
広井良典の著作はずっと共感的に読んできたが、この新刊も分析と批判そしてオルタナティヴの提示と、バランスのとれた好著である。タイトルの「ア」とは「アメリカ」のこと。そこには、冷戦構造が崩壊したいま、日本は純粋資本主義社会であるアメリカではなく、福祉国家的資本主義であるヨーロッパ(とくに北欧)をモデルにせよとのメッセージが込められている。ラディカルな左派は、こうした社会民主主義的路線を折衷的で資本主義を延命させることにしかならないと批判してきた。しかし、社会主義のプロジェクトが潰えたいま、アメリカ型純粋資本主義に対抗しうるカウンターパートは、経済成長を指向することなく「豊かさ」が享受できる「定常型社会」しかないように思える。広井氏のアメリカ留学体験をもとにエッセイ風に書かれた第2部も、随所に刺戟的な考察が光る。

なんとか脱稿

ずいぶんインターバルがあいてしまった。8月締め切りの原稿があり、それにかかっていたのでなかなか更新できずにいた。その原稿もどうにか仕上がり、出版社に郵送。他の関係者の方々はどんな感じでしょうか? 今日、某氏からテーマ確認の電話があり編者のひとりとしてかなり不安なんですけど・・・。

ここんとこ理論系の本ばかり読んでたので、気分転換に小説でもと、阿部和重ニッポニアニッポン』(新潮文庫)と町田康『きれぎれ』(文春文庫)を買う。ついでにちくま新書の新刊、加藤秀一『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか』と香山リカ『〈私〉の愛国心』も。町田康芥川賞受賞作「きれぎれ」は読了。う〜ん、正直『くっすん大黒』(文春文庫)ほどの疾走感が感じられない。登場人物のキャラももうひとつ。ちなみに、「くっすん大黒」のチャアミイと浜岡賢次の漫画『浦安鉄筋家族』(秋田書店)に出てくる仁ママは、おばちゃんキャラとしては最強です。どちらかのファンの人は合わせて読みましょう。

宮台真司『絶望 断念 福音 映画』

絶望・断念・福音・映画―「社会」から「世界」への架け橋(オン・ザ・ブリッジ) (ダ・ヴィンチブックス)
8月締め切りの原稿があり、少し書き始めているのだが、どうも調子がでないので、昨日買った宮台真司の新刊を読む。雑誌『ダ・ヴィンチ』連載の映画評論(というより、映画を素材に宮台氏の〈世界〉観・〈社会〉観を述べたものというべきか)を集めたものである。まだ半分ぐらいしか読んでいないが、「あとがき」でも述べられているように、〈内在〉から〈超越〉へ、あるいは〈社会〉から〈世界〉へという、ここ数年のなかで起こった宮台氏の「転向」がはっきりと示された本だ。90年代後半にいわれた「終わりなき日常をまったりと生きよ」というメッセージはここでは聞かれない。かわりに、「〈世界〉の根源的未規定性へと開かれた態度」が推奨される。たとえば、こんなことが述べられている。

ところで、制御不可能な偶発事によって、自己完結した〈社会〉の中に不意に名状しがたい〈世界〉が闖入することがある。そのとき〈社会〉の外が突如可視的となり、同時に、〈世界〉の中にたまさか〈社会〉があるに過ぎないという「端的な事実」が露わになる。
この可視性は、〈社会〉を一挙に相対化するので、一方でコミュニケーションの底が抜けるとの不安を伴いながらも、他方では〈社会〉の動かしがたい自明性がカッコに入れられるので、〈社会〉内での位置づけや〈社会〉内での関係で苦しむ人々を「癒す」働きを示す。(42頁)

そして、この不意に訪れる「名状しがたいスゴイもの」を「福音」として聴く感受性が賞揚される。おそらくこうした指向性は宮台氏の思想のなかに一貫して流れるもので、「意味から強度へ」という言い回しのなかにもそのことはうかがえた。その意味で「転向」という表現は誤解を与えやすいものだが、ただそれにしても、ここまで〈社会〉の外部への指向をはっきりと示すことは90年代にはなかったことではある。
こうした〈超越〉への指向をどう評価すべきか? 前に『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』について少し書いたが(http://d.hatena.ne.jp/bibleblack/20040730#p1)、ぼくがこの映画で何よりも素晴らしいと思ったのは、それこそ社会内での位置づけや関係に苦しむヘドウィグが自己肯定感を獲得する瞬間が、〈超越〉や「名状しがたいスゴイもの」にリファーすることなく――というよりむしろそれらを否定することによって――訪れているという点である。このことは、ヘドウィグの曲をパクりスターとなったかつてのボーイフレンド、トミー・ノーシスがアンサー・ソングとして歌うWicked little townの詞のなかに端的に示されている。この曲でトミーは、「幸運が立ち去ったときみは思ってるけど、たぶん上空には大気しかないんだ。神秘的な設計もなければ、運命の恋人もいない。きみが見ているものがすべてさ」と歌い、最後に「他になす術がないのなら、ぼくの声を追いかけてみないか」と呼びかける。この歌を聴き、ヘドウィグは癒され自らが完全な存在であることを知る。ここには、超越へ指向することなく自己を――そして他者を――肯定する経路が鮮やかに示されている。
 かつての宮台氏ならここに「まったり革命」の可能性を見出したのかもしれないが、この本ではひたすら〈社会〉の外部への指向が見れるどうかを軸に近年の映画が評価されている。しかし宮台氏がどれほど「ほらこの映画には、名状しがたいスゴイものの出来が示されてるだろ」といっても、「それはあなたがそう感じるだけで、わたしはなにも感じませんが」と簡単に返されてしまう時代、それが成熟近代ではなかったか? そしてそうであるがゆえに、〈社会〉への〈内在〉を徹底して指向する「まったり革命」を肯定したのではなかったか? 最近の天皇制や亜細亜主義をめぐる発言と考え合わせると、宮台氏の思考のなかにロマン主義的反動が生じているように思えてならない。ちなみに、この本では『ヘドウィグ〜』への言及はない。

『現代思想』8月号 柄谷行人『トランスクリティーク』

じつに久しぶりに『現代思想』を買う。「柄谷行人インタヴュー」が目当てだったからなのだが、内容としては『トランスクリティーク』以来のアイデアを改めて語りなおしたもので、とくに目新しい点はない。こちらとしては、70年代〜80年代の柄谷氏の仕事と現在の立場がどうつながっているのか(あるいはつながっていないのか)を知りたいという期待があったのだが、残念ながらそうしたことにはほとんど触れられていない。ただ、80年代の表象論(『日本近代文学の起源』あたりを指すのだろう)への自己批判として現在の仕事があるということは述べられてた。

トランスクリティーク』を読んだときにも感じたことなのだが、労働者が「買う立場」に立ち消費者運動を起こすことが資本への対抗の契機となりうるという考えには、いまだに納得できないでいる。「売る立場」と「買う立場」の非対称性、「売る立場」の危うさは『マルクスその可能性の中心』や『探究I』以来の一貫した主張だが、「売る立場」がリスキーであるということは、「買う立場」が安全な位置であるということと表裏関係にある。そしてこの「買う立場」が安全であるのは、人々が貨幣の価値を信頼しているからだ。とすると、貨幣への信頼にもとづいた「買う立場」からの消費者運動というのは、資本制にとって本質的な打撃とはならないのではないか。つまり、資本制が生み出す貨幣のフェティシズム流動性選好)を前提としながら、資本制を揚棄するというのはどう考えても倒錯したアイデアのように思えてならない*1

柄谷氏からすれば、貨幣の存在それ自体がまずいのではなく、自己増殖し資本に転化する貨幣が問題なのだということなのだろう。だからこそ、「貨幣はあらねばならず」なおかつ「貨幣はあってはならない」というアンチノミー揚棄する制度として、LETS(地域交換取引制度)にその可能性を見たのである、と。しかし、かりにこうした制度が可能であったとしても、消費者運動LETSは順接関係にあるとはいえないはずだ。前者は貨幣のフェティシズムに立脚し、後者の通貨はこうしたフェティシズムを生まないとされているのだから。両者をつなぐロジックは、『トランスクリテーク』にも今回のインタヴューにも見出すことはできなかった。

*1:それゆえ、岩井克人は資本制にとって本当の危機は「商品が売れない」デフレにではなく、「貨幣が紙くず同然に扱われる」ハイパーインフレーションにあるとしている。つまり、「買う立場」の危うさが露呈するときこそが、資本制にとって本質的に危機的な状況なのだ。

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]
遅ればせながら、ある人の強烈なすすめでこの映画を見た。いや、よかったです。性転換手術の失敗により異形の存在として生きるロック・ヴォーカリスト、ヘドウィグ。彼/彼女がその不完全な部分をだれかに補ってもらうのではなく、自らの異形性をそのまま承認することで完全な存在となるまでの過程が、鮮やかなロック・ミュージックにのって描かれてます。まあテーマとしてはよくあるものだし、ヘタすると通俗的な「私さがし系」の物語に堕しかねないんだけど、それを免れているのは、やはり音楽の力によるところが大きい。グラムロックからカントリー・ポップスまで、どの曲もキャッチーでいてクォリティは高く、何よりも歌詞が素晴らしい。早速、アマゾンでサントラ盤(ASIN:B00005LNJ4)注文しようとしたら、この映画のオリジナルであるミュージカルの写真や台本を収めたペーパー・バック版(ISBN:1585672955)をすすめられる。少し迷ったがこれも注文することに。まんまアマゾンの術中にハマってるな(笑)。

広田照幸『教育』ほか

電車のなかで広田照幸『教育』(ISBN:4000270079)を読む。岩波の「シリーズ思考のフロンティア」の一冊なのでコンパクトな本なのだが、なかなか読み応えのあるものであった。教育がもつ社会化/配分という機能に、個人化/グローバル化というパースペクティヴを重ね合わせることで現代の教育が直面する問題を摘出し、ネオリベラル的教育改革路線への対抗軸を探るといった内容。理論的には前に紹介したベックの個人化論(http://d.hatena.ne.jp/bibleblack/20040521#p1)が議論の下敷きになっているが、個人化論はヘタすると一切を個人による選択の結果と見なすことで、格差の拡大を是認するイデオロギーとして作用する危険性を秘めている。カウンターパートとして持ち出される、「経済成長によってではなく、財や配分格差を小さくすることで〈生〉の安定を保障する社会」および、こうした社会において教育が果たすべき機能は、いまだラフスケッチにとどまるとはいえ共感できるヴィジョンである。

帰りにパオロ・マッツァリー『反社会学講座』(ISBN:4872574605)と仲俣暁生『ポスト・ムラカミの日本文学』(ISBN:4255001618)を買う。前者は「はてな」でもいろいろな方が紹介しているようだが(たとえばhttp://diary.hatena.ne.jp/dice-x/20040628)、たしかに学部生に読ませるにはもってこいだ。後者は仲俣氏のブログページ(http://d.hatena.ne.jp/solar/20040704#p1)で知った。前から仲俣氏の書評を読んでいてぼくと好みが似てるなと感じていたのだが、この本の巻末に付いているブックガイドを見てさらにその意を強くする。未読の小説もいくつかあるので(とくに最近のもの)、この夏休みに読んでみよう。