宮台真司『絶望 断念 福音 映画』

絶望・断念・福音・映画―「社会」から「世界」への架け橋(オン・ザ・ブリッジ) (ダ・ヴィンチブックス)
8月締め切りの原稿があり、少し書き始めているのだが、どうも調子がでないので、昨日買った宮台真司の新刊を読む。雑誌『ダ・ヴィンチ』連載の映画評論(というより、映画を素材に宮台氏の〈世界〉観・〈社会〉観を述べたものというべきか)を集めたものである。まだ半分ぐらいしか読んでいないが、「あとがき」でも述べられているように、〈内在〉から〈超越〉へ、あるいは〈社会〉から〈世界〉へという、ここ数年のなかで起こった宮台氏の「転向」がはっきりと示された本だ。90年代後半にいわれた「終わりなき日常をまったりと生きよ」というメッセージはここでは聞かれない。かわりに、「〈世界〉の根源的未規定性へと開かれた態度」が推奨される。たとえば、こんなことが述べられている。

ところで、制御不可能な偶発事によって、自己完結した〈社会〉の中に不意に名状しがたい〈世界〉が闖入することがある。そのとき〈社会〉の外が突如可視的となり、同時に、〈世界〉の中にたまさか〈社会〉があるに過ぎないという「端的な事実」が露わになる。
この可視性は、〈社会〉を一挙に相対化するので、一方でコミュニケーションの底が抜けるとの不安を伴いながらも、他方では〈社会〉の動かしがたい自明性がカッコに入れられるので、〈社会〉内での位置づけや〈社会〉内での関係で苦しむ人々を「癒す」働きを示す。(42頁)

そして、この不意に訪れる「名状しがたいスゴイもの」を「福音」として聴く感受性が賞揚される。おそらくこうした指向性は宮台氏の思想のなかに一貫して流れるもので、「意味から強度へ」という言い回しのなかにもそのことはうかがえた。その意味で「転向」という表現は誤解を与えやすいものだが、ただそれにしても、ここまで〈社会〉の外部への指向をはっきりと示すことは90年代にはなかったことではある。
こうした〈超越〉への指向をどう評価すべきか? 前に『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』について少し書いたが(http://d.hatena.ne.jp/bibleblack/20040730#p1)、ぼくがこの映画で何よりも素晴らしいと思ったのは、それこそ社会内での位置づけや関係に苦しむヘドウィグが自己肯定感を獲得する瞬間が、〈超越〉や「名状しがたいスゴイもの」にリファーすることなく――というよりむしろそれらを否定することによって――訪れているという点である。このことは、ヘドウィグの曲をパクりスターとなったかつてのボーイフレンド、トミー・ノーシスがアンサー・ソングとして歌うWicked little townの詞のなかに端的に示されている。この曲でトミーは、「幸運が立ち去ったときみは思ってるけど、たぶん上空には大気しかないんだ。神秘的な設計もなければ、運命の恋人もいない。きみが見ているものがすべてさ」と歌い、最後に「他になす術がないのなら、ぼくの声を追いかけてみないか」と呼びかける。この歌を聴き、ヘドウィグは癒され自らが完全な存在であることを知る。ここには、超越へ指向することなく自己を――そして他者を――肯定する経路が鮮やかに示されている。
 かつての宮台氏ならここに「まったり革命」の可能性を見出したのかもしれないが、この本ではひたすら〈社会〉の外部への指向が見れるどうかを軸に近年の映画が評価されている。しかし宮台氏がどれほど「ほらこの映画には、名状しがたいスゴイものの出来が示されてるだろ」といっても、「それはあなたがそう感じるだけで、わたしはなにも感じませんが」と簡単に返されてしまう時代、それが成熟近代ではなかったか? そしてそうであるがゆえに、〈社会〉への〈内在〉を徹底して指向する「まったり革命」を肯定したのではなかったか? 最近の天皇制や亜細亜主義をめぐる発言と考え合わせると、宮台氏の思考のなかにロマン主義的反動が生じているように思えてならない。ちなみに、この本では『ヘドウィグ〜』への言及はない。