『現代思想』8月号 柄谷行人『トランスクリティーク』

じつに久しぶりに『現代思想』を買う。「柄谷行人インタヴュー」が目当てだったからなのだが、内容としては『トランスクリティーク』以来のアイデアを改めて語りなおしたもので、とくに目新しい点はない。こちらとしては、70年代〜80年代の柄谷氏の仕事と現在の立場がどうつながっているのか(あるいはつながっていないのか)を知りたいという期待があったのだが、残念ながらそうしたことにはほとんど触れられていない。ただ、80年代の表象論(『日本近代文学の起源』あたりを指すのだろう)への自己批判として現在の仕事があるということは述べられてた。

トランスクリティーク』を読んだときにも感じたことなのだが、労働者が「買う立場」に立ち消費者運動を起こすことが資本への対抗の契機となりうるという考えには、いまだに納得できないでいる。「売る立場」と「買う立場」の非対称性、「売る立場」の危うさは『マルクスその可能性の中心』や『探究I』以来の一貫した主張だが、「売る立場」がリスキーであるということは、「買う立場」が安全な位置であるということと表裏関係にある。そしてこの「買う立場」が安全であるのは、人々が貨幣の価値を信頼しているからだ。とすると、貨幣への信頼にもとづいた「買う立場」からの消費者運動というのは、資本制にとって本質的な打撃とはならないのではないか。つまり、資本制が生み出す貨幣のフェティシズム流動性選好)を前提としながら、資本制を揚棄するというのはどう考えても倒錯したアイデアのように思えてならない*1

柄谷氏からすれば、貨幣の存在それ自体がまずいのではなく、自己増殖し資本に転化する貨幣が問題なのだということなのだろう。だからこそ、「貨幣はあらねばならず」なおかつ「貨幣はあってはならない」というアンチノミー揚棄する制度として、LETS(地域交換取引制度)にその可能性を見たのである、と。しかし、かりにこうした制度が可能であったとしても、消費者運動LETSは順接関係にあるとはいえないはずだ。前者は貨幣のフェティシズムに立脚し、後者の通貨はこうしたフェティシズムを生まないとされているのだから。両者をつなぐロジックは、『トランスクリテーク』にも今回のインタヴューにも見出すことはできなかった。

*1:それゆえ、岩井克人は資本制にとって本当の危機は「商品が売れない」デフレにではなく、「貨幣が紙くず同然に扱われる」ハイパーインフレーションにあるとしている。つまり、「買う立場」の危うさが露呈するときこそが、資本制にとって本質的に危機的な状況なのだ。