役割演技と新しい親密性

春学期の授業も折り返し地点を過ぎ、来週はこれまでの授業のなかで学生に提出してもらった疑問や感想に答える回にしようと思い、その準備のためミニレポートを読み直す。これまでの授業内容は「社会学っていうのはこういう考え方をするんだよ」ということを伝えるため、ラベリング理論やら動機の語彙論などを紹介してきたわけだが、一番反響があったのはゴフマンのドラマトゥルギー論を取上げた回であった。

この授業は経済学部の学生を相手にしているため、経済学的な人間観ホモ・エコノミクス(利得を追求する人間)にたいして、社会学的な人間観ホモ・ソシオロジクス(役割を演じる人間)を対置し、この人間観からすると、ほとんどすべての人間の行動は「演技」と捉えられることになるが、このような見解についてどう思うかという感想を書いてもらった。

すると、「人間の行為はすべて演技といえるか」という問いにたいしては、ほぼ意見が半々に分かれており、Noと答えた人たちは、「本気で怒ったり悲しかったりするのは演技ではない」「生理的欲求は役割と無関係なので演技ではない」「本当の親友との付き合いは演技ではない」「ひとりで好きなことをしているのは演技ではない」などと書いていた。このあたりは「演技」の定義によりどの見解も一理あるとはいえるだろう。興味深いのは、人間の行為がすべて演技だとはいえないと主張する学生たちの大半が、「演技」という言葉にたいへんネガティヴな印象をもっているということだ。「すべてが演技だとしたらすごく悲しい」と書いている人もいた。どうも、かれらには「人間の行動はすべて演技ではない」という認識より、そんな風に思いたくないという願望が最初にあるようだ。

近年、社会学的自己論をベースにした若者論のひとつとして、状況に応じて役割を切り替え相手と選択的・限定的に関わっていくことを肯定的に捉える新しい親密性の形が生じつつあるという説(浅野智彦「親密性の新しい形へ」ISBN:4769908881)が提起されており、ぼく自身そうした見解に基本的に同意しているのだが、ただ今回、こうして現在の学生が書いてくれたコメントを読むと、その一方にある意味ベタな親密観を有している若者もかなりいるということもわかる。「冬のソナタ」や「世界の中心で、愛をさけぶ」のブームを支えているのは、ひょっとしたらこのような若者たちなのだろうか?