北田暁大『〈意味〉への抗い』

〈意味〉への抗い―メディエーションの文化政治学
昨年、2ちゃんねるを分析・批評した「嗤う日本のナショナリズム」(『世界』2003年11月号)によりメジャー・ブレイク、今や最も注目すべき論壇人となった北田暁大氏の新刊。ここ数年の間に発表された論文が硬軟取り混ぜて集められているが、残念ながら「嗤う…」は未収録である*1

これら一見雑多な諸論文を貫いているのは、コミュニケーションにおける「媒介性(mediated-ness)」あるいは「媒介作用(mediation)」への執拗なこだわりである。媒介性・媒介作用とは、「いかなるコミュニケーションにおいても、つねにすでに媒体が介在し作用している」という事実を指すわけだが、これだけだと、メディア論やコミュニケーション論を少しでも齧った人間にとってはごく当たり前の事柄を述べているように思われるだろう。しかしここで北田氏が強調するのは、媒介性・媒介作用を捉える際の二つの視点、つまりコミュニケーションはメディアを「通して(through)」可能になるという考え方と、メディアに「おいて(in)」可能になるという考え方のクリティカルな差異である。

前者の考えに従うならば、メディアはコミュニケーションにおける媒介手段にすぎずしたがってそれには副次的な価値しか与えられない。ここからは、「意味や情報を歪めることなく伝えるメディアこそがすぐれたメディアである」との機能的的観点から評価が下され、メディアの持つ物質性(人間に対する外部性)だ主題化されることはない。これに対して「コミュニケーションはメディアにおいて可能となる」という立場では、意味や情報とメディアは不即不離の関係にあると捉えられるので、メディアは意味や情報を伝送する運搬機ではありえず、そこにおいて意味が表されるメディアの物質性(人間に対する外部性)という問題が不可避的に前景化される。多くの〈メディア論〉がメディアの問題を扱っているようでいながら、前者の立場に立つことで媒介性の問題を消去してしまうのに対して、ルーマンベンヤミンそして中井正一らの理論や思想を追尾することで浮かび上がってくるのは、情報/伝達を等根源的であると捉えることによる「媒介の直接性」という認識であり、こうした認識のなかにこそ媒介性の問題を主題化する反〈メディア論〉的メディア論の可能性を示されている。

このような理論的考察を受けて、後半では媒介性の問題がより具体的コンテクストで展開されるのだが、個人的に興味深かったのはリアリティ・テレビをめぐる論考である。ここで北田氏は、アメリカでは大きな人気を博したリアリティ・テレビがなぜ日本ではあまり受け入れられなかったのかという問いの答えとして、アメリカと日本のテレビ視聴者の間に見られる「媒介性」の受け止め方の違いを挙げている。つまりアメリカのリアリティ・テレビは、それがテレビによって媒介されているという事実を隠蔽することで成り立っているのに対して、日本の視聴者はテレビというフレームの媒介性を意識しているため、そこにリアリティを感じることはできなっかたというわけである。このことは、アメリカの視聴者はテレビというメディアを「通して」現実が表象されているというメディア観を有しているため、メディアが「透明化」するにしたがい現実と表象は限りなく接近していくと感じているが、日本の視聴者の方は、テレビというメディアに「おいて」現実が表象されていると捉えるため、無媒介の現実とテレビによって媒介された表象の短絡が生じにくいと、言い換えられるだろう。

では、日本のテレビ視聴者はいかにしてこのようなメディア観を有すにいたったのか? 北田氏はその源を、1980年代のテレビ文化に求める。マンザイブームや『スチュワーデス物語』にツッコミを入れながら視聴するという経験をへて、表象とは独立に「現実」がありメディアは透明な媒介になることで「現実」を歪めることなく伝えることができるはず、という実存主義的メディア=現実観から距離をとり、メディアの媒介作用のなかではじめて「現実」が構成されるとの構造主義的メディア=現実観を獲得したというわけだ。このような時代診断は、記号論ボードリヤールのハイパーリアリティ論などが当時の論壇で大流行していたことを考え合わせると、大いに頷けるところではある。だが、疑問なしとはしない。

たとえば1980年の村松友視『私、プロレスの味方です』(ISBN:479749073X)により真/偽、本気/演技、格闘技/ショーなどの二項対立が「脱構築」され、プロレス=八百長とのコンプレックスから「解放」されたかに見えたプロレスファンの一部が、80年代半ばに「真剣勝負」を売りにするUWFへと流れていったという「事件」をどう理解したらよいのだろうか? 大塚英志は『「おたく」の精神史』(ISBN:4061497030)において、現実/虚構の分割が揺らぐなかいま一度この境界線を引きなおし「現実」を探り当てたいという期待が生まれ、それに応えてくれそうなイベントとして見出されたのが、「真剣勝負」を闘うUWFだったと述べる。だとすれば80年代を、あらゆる「現実」はメディアの媒介作用において構成されると見なす構造主義的メディア=現実観が席捲した時代と、簡単に言い切ることはできないことになるだろう。こうした構造主義的メディア=現実観の浸透にともない、その一方で、メディアによる媒介を被らない、あるいは媒介作用に付随する「ノイズ」を極力減少させることで到達可能な「本当の現実」がどこかに存在するという実存主義的メディア=現実観をも育んでいった時代、それが80年代なのではないだろうか。

あらゆる情報や言説をツッコミの素材=ネタと見なすアイロニズムの徹底化の果てに現れるロマン主義への回帰――冒頭でふれた論文において、北田氏は2ちゃんねらーがたどる弁証法的な過程を描いてみせた。しかし、ひょっとするとこの回帰は、すでに20年前に生じていたことの繰り返し(それが悲劇なのか喜劇なのかという判断は保留するとして)なのかもしれない。

*1:http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040701によると、次の『論座』に2ちゃんねるに関する(最後の?)論文を発表するとあるので、それと合わせていずれ本に収録されるのかもしれない