山脇直司『公共哲学とは何か』

公共哲学とは何か (ちくま新書)
ここんとこ編者のひとりとして参加している本の仕事に忙しく、読書の時間があまりとれない。そんななか仕事の行き帰りを利用してなんとか読めたのが山脇直司『公共哲学とは何か』(ちくま新書)。

しかし、正直いってこの本はハズレであった。「国」のために「私」を犠牲にすることを要求する「滅私奉公」的公私観と、これと対になる 「私」を最優先し「他者」と共にあることの意味を蔑ろにする「滅公奉私」的公私観。現在この国で幅をきかすこれら二つの公私観を前提とすることなく「公共性」とは何かを考え、またそれを立ち上げるためには、専門分化してしまった人文・社会科学を乗り越え、こうした諸学問を「ポスト専門化時代」にふさわしいかたちで編成しなおさなければならない。そして、この課題を真摯に受けとめ応えるのが「公共哲学」である。ここでの山脇氏の主張をダイジェストするとこんな感じになる。

この「公共哲学」の輪郭を描くために、ここではさまざま理論や思想が総覧的に取り上げられ、ときに共感的にときに批判的に言及されているのだが、気になったのは、とくに批判的な評価がなされる場合、その理論を要約する手つきがあまりにも杜撰で紋切り型になりがちなことだ。たとえば、システム理論の代表としてあげられているルーマンについてはこんなふうに書かれている。

ルーマンによれば、それぞれのコミュニケーションの象徴(権力、貨幣、法規、親密性……)の違いに応じて、政治システム、経済システム、法システム、家庭システム……等々が認識されます。これらのシステムが、どのように他のシステムに対して周りの世界となって機能しあい、複雑な現代社会を構成しているかを冷徹にとらえ、そうした社会の複雑さを軽減することを社会学の最重要課題とみなします。185頁

ルーマン社会学にたいするこの評価には首をかしげざるをえない。学問システムという部分システムのそのまた部分システムである社会学が、「社会の複雑さを軽減する」ことなどありえないことだからだ。さらにここから、この理論では行為の責任という倫理的問題が棚上げされ、機能主義的な社会政策しか論じられなくなるとの裁断がくだされているが、このような社会システム論に対する評価は、20年前ならともかく、馬場靖雄ルーマンの社会理論』(ISBN:4326652551)など現代の優れたルーマン研究を踏まえると、いくら何でも一方的なものだといわざるをえないだろう。

専門分化が徹底化されることによる人文・社会科学の閉塞状況を打破したいという著者の意気込みは理解できるが、かといってそのことが個々の理論や思想を歪曲したり曲解したりすることにつながってはならないはずだ。さなもないと、ポスト専門化時代における学問横断的なプロジェクトとして構想された「公共哲学」の試みもまた、もう一つの専門分野を付け加えるだけに終わってしまうであろう。